灼熱チャリと代々木公園と寿司25皿

今日は自転車で、はるばる代々木公園へと足を運んだ。いや、正確には「足を回した」と言うべきか。自転車だから。
ただ、このチャリ旅が想像以上に地獄だった。

照り付ける太陽は容赦なく、ジリジリと肌を焼いてくる。道路のアスファルトは熱を蓄え、そこからの反射で常にサウナにいるかのような状態。前を走る車の排気ガスが熱気と混ざり合い、まるで焼肉屋の煙突に顔を突っ込んでいるような気分だった。自転車にまたがりながら、「これ修行かな?」と何度も思った。

しかも、自転車は基本的に車道を走らないといけない。車道を走れば今度は車に幅寄せされる。横をすり抜けていく車の風圧で体が揺れ、ドライバーからは「なに道路走ってんだよ」みたいな冷たい視線。時には睨まれる。
かといって歩道を走るわけにもいかない。ルール違反だし、歩行者にとって迷惑以外の何物でもない。結局、どっちを選んでも修羅道。ああ、チャリダーの悲哀。

そんな思いをしてまで代々木公園に行ったのは、したいことがあったからだ。
――写真を撮りたい。

写真を撮ることは、僕にとって習慣みたいなものになっている。普段からカメラをぶら下げて出かけ、パシャパシャ撮ってはいるが、一応「写真家」と名乗っている。もっとも、アマチュアですらない、ただの趣味レベルなのだが。肩書なんて大げさなものではない。ただ「写真家」と口にしたほうが、なんとなく自分の気持ちが整う。そういう「照れ隠し」みたいな言葉だ。

撮った写真はInstagramに投稿している。しかし、まあ見られることはほとんどない。フォロワーが多いわけでもなく、いいねがつくわけでもない。結局、自分で撮って、自分で眺めて、ひとりで悦に浸る。そういう世界。
でもそれでいいと思っている。むしろそれでなければ続かない気もする。見られるために撮るんじゃなく、自分のために撮る。まあ格好つけすぎかもしれないけど。

代々木公園で撮った写真も、帰ってから確認すると、やはり採用できるのは10枚中2枚くらい。8割はボツ。ピントが甘いとか、光の当たり方が気に入らないとか、あるいはそもそも構図がイマイチとか。理想が高いのか、単なる技術不足か。どちらにせよ「これだ!」と思える瞬間は少ない。だけど、その少なさこそが逆に楽しかったりもする。

家に帰ってまずしたのは、汗を流すこと。風呂場に飛び込むようにシャワーを浴び、頭から水をかぶった瞬間、「ああ、生きてる」って本気で思った。お湯じゃなく水。冷たい水が火照った体を駆け抜ける。それだけで全ての苦労がチャラになる。いや本当に。大げさに聞こえるかもしれないが、暑さの中で自転車をこいできた者だけが味わえる特権だと思う。

汗を流した後は、やっぱり腹が減る。代々木公園で写真を撮っている間も、頭の片隅ではずっと「今日は何を食べよう」と考えていた。寿司の気分でもあり、ラーメンの気分でもあった。どちらも捨てがたい。じゃあ両方食べられる場所は……?と考えて、最終的に選んだのは回転ずしだった。

寿司屋に入ってからの僕は、もうほとんど戦闘モードだった。
気が付けば寿司を25皿、ラーメンを2皿、さらに味噌汁を1杯。気が付けばテーブルは皿のタワー。これを横から見たら、きっと「ちょっとした大会」みたいな光景になっていたと思う。周りの視線を少し感じながらも、「まあ、今日は特別だから」と自分に言い訳をしつつ、箸を止めなかった。

25皿も食べると、さすがに胃袋は悲鳴を上げてくる。なのに、それを超えてさらにラーメン2皿をねじ込む自分。味噌汁で締めた瞬間には、満腹というより「満艦飾」という言葉がぴったりな気がした。もう、胃袋の中に戦争が起こっているレベルだった。

結局、今日一日の出来事を振り返ると、汗だくになってチャリをこぎ、写真を撮り、風呂に入り、寿司とラーメンを限界まで食べる。これを客観的に見れば、ただの変人だろう。けれど僕にとっては、最高に人間らしい一日だった。

写真家を名乗るには腕も経験も足りない。自転車乗りを名乗るには根性も体力も足りない。大食いを名乗るには記録も覚悟も足りない。どれも中途半端で、どこにも属しきれない。けれど「中途半端なまま、全部ちょっとずつやる」のが、どうやら僕らしい。

こうしてブログに書いてみると、結局は自分の照れ隠しを文字にしているような気がする。「写真家」とか「寿司25皿」とか、そういう肩書や数字の裏に隠れて、本当はただの平凡な一日。それをわざわざ大げさに語ることで、なんとか形にしているのだろう。

けれど、それでもいいと思う。だって、これは僕のブログなのだから。

こんな取り留めのないことを長々と書いてしまったが、最後まで読んでくれてありがとう。もしこのブログを面白いと思ってくれたなら、はてなブログの読者に登録してもらえると嬉しい。僕にとっては、それが何よりの励みになる。

滲む月と、不器用な僕のカメラロール

昨日、ふと夜空を見上げたら、月がとても綺麗だった。
いや、「綺麗だな」と思うのはよくあることかもしれないけど、昨日の月は妙に心に残ったのだ。
まるで空にぽつんと浮かぶ白い灯りが、自分のために点いているかのように感じられて。
その瞬間、なんだか「これを残したい」と思った。
だからポケットからスマホを取り出して、カメラを空に向けた。

しかし、である。
シャッターを切って画面を見返したとき、僕は思わず声を漏らしてしまった。
「なんということだ」
そこに写っていたのは、僕がさっき見ていた月とはまったく違うものだった。
丸いどころか、すっごいボケている。
ぼやけた丸い光の塊が、滲むようにただ存在しているだけ。
あの清らかな輝きも、澄んだ輪郭も、何一つ残っていなかった。
これではまるで、カメラが僕にいたずらを仕掛けてきたかのようだ。

その瞬間、ふと思った。
人の目と心が「綺麗だ」と感じるものって、カメラで簡単に切り取れるものじゃないのかもしれない。
肉眼で見た月は真ん丸だったのに、レンズを通した瞬間、ただの光の染みになってしまう。
けれどその“違い”が、なんだか愛おしく思えた。
僕が「綺麗だ」と感じたのは、あの一瞬の体験そのもので、写真ではないのだ。

それでも僕は、しつこく何枚もシャッターを押した。
構図を変えたり、ズームをいじったり、呼吸を整えてブレないようにしたり。
結果、全部ブレていた。
同じくらい滲んでいて、結局、最初の一枚目と大差ない。
「努力しても変わらないこともあるんだな」なんて、半ば笑いながら思った。
だけど、それすらもどこか人間らしくて面白い。

僕たちはなぜ、写真に残したがるのだろう。
見たままを撮れないとわかっていても、どうにかして記録したいと思ってしまう。
それは「忘れるのが怖い」からかもしれないし、「共有したい」からかもしれない。
でも、月はきっとそんな人間の事情なんて気にしていない。
静かに、ただそこに浮かんでいる。
スマホの画面では滲んでしまう月も、僕が見上げたあの瞬間の月は確かに綺麗だった。
その事実だけで十分なのかもしれない。

だけど正直なところを言えば、やっぱりちょっと悔しい。
SNSに載せたら「おお、綺麗だね」と言ってもらえるような写真が撮りたかったのだ。
けれど、僕のカメラロールに残っているのは「ぼやけた街灯」と区別がつかないような光の塊。
もし誰かに見せたら「これ、月?」と聞かれるのがオチだろう。
いや、もしかすると「ライト?」とすら思われるかもしれない。

そのとき、ふと笑ってしまった。
「そうか、僕が見た“綺麗な月”は、僕だけのものなんだな」と。
人に見せるために撮ったはずなのに、結局は僕の心の中にしか残らない。
それって案外贅沢なことなんじゃないか。
誰にも完全には共有できない美しさを、自分の中だけに持っている。
それを“独り占め”と言わずして何と言おう。

それに考えてみれば、写真に撮れなかったからこそ、こうして文章にして残そうとしている自分がいる。
カメラは月を滲ませたけれど、そのおかげで僕は「綺麗だと思った瞬間」を書き留めたくなった。
つまり、あのボケた写真は無駄ではなかったのだ。
写真が不完全だったからこそ、僕は心の中に残った月を見つめ直している。

人間って、うまくいかないことの中にこそ、大事なものを見つけてしまう生き物なのかもしれない。
昨日の僕もそうだった。
ブレブレの写真を眺めながら「なんでだよ」と笑い、でも同時に「やっぱり綺麗だったな」と思い出す。
そのギャップの中に、妙な温かさがある。
僕が求めていたのは完璧な写真じゃなくて、「月が綺麗だと思えた心」そのものだったのだろう。

だから今日も、夜になればまた空を見上げるだろう。
スマホを構えるかもしれないし、もう諦めて目だけで眺めるかもしれない。
どちらにしても、昨日の月は昨日しか見られなかった。
そして今日の月は今日しか見られない。
そう思うと、失敗写真でさえ宝物のように見えてくる。

滲んだ光の中に、僕が感じた美しさはちゃんと残っている。
たぶんそれでいいのだ。

宇宙戦艦ヤマトのテーマについて。

今日もいつものようにラーメンライスを食べていた。恥ずかしながら、これが僕の定番である。けれどその時、ふと頭に浮かんだのは食事のことではなく、宇宙戦艦ヤマトのテーマだった。唐突に、あの重厚で力強い旋律が脳内に響き渡り、箸を止めてしまうほどだった。

考えてみれば、あの曲以上に日本人の心を無条件に揺さぶるものはないのではないだろうか。なぜかといえば、ヤマトという存在そのものが、日本人の歴史的記憶と美意識を結晶化した「艦」であり、そして「戦いの舞台」だからだ。

ヤマトには他のアニメ作品にはない独特の黄金比がある。艦隊、戦闘機、連合軍、そして孤高の旗艦ヤマト。その全てが絶妙に配置されている。戦闘機だけでは軽すぎる。艦隊戦だけでは重苦しい。けれど「一隻の巨大戦艦に無数の戦闘機が絡み、艦隊が宇宙の闇でぶつかり合う」そのバランスが、少年の心をこれほど強く震わせるものはないのだ。

特に「ヤマト対○○艦隊」という構図は、物語を超えた普遍的なカタルシスを持っている。数に勝る敵艦隊が容赦なく押し寄せ、絶望的とも言える状況の中でヤマトは立ち向かう。艦橋に立つ沖田艦長の「まだだ、まだ終わらんぞ」という表情。それは単にアニメの一場面ではなく、人間が「逆境に立ち向かう姿」の象徴そのものだ。

ここで重要なのは「一対多数」という図式だ。ヤマトは常に孤独だ。背後には守るべき地球がある。しかし前方には、数え切れないほどの敵艦隊が待ち構えている。その状況でなお波動砲を放ち、突破口を切り開く。まさに「孤高の美学」である。日本人が長年培ってきた「一人であっても正義を貫く武士道」の精神が、この一隻の艦に宿っているのだ。

もちろん、技術的な描写の格好良さも無視できない。敵艦隊の隊列、機動、波状攻撃。それに応えるヤマトの機関部の唸り、主砲の轟き、そして波動砲発射前の緊張感。これらは単なる戦闘シーンではなく、まるで管弦楽の演奏のように計算され尽くした演出である。特に「主砲斉射!」の瞬間、画面に響き渡る重低音は、ラーメンライスのスープが胃に落ちる音よりも深く僕の身体を震わせる。

さらに言えば、ヤマトの艦体デザインそのものが「美」の塊だ。旧日本海軍戦艦大和をモデルにしながら、それを宇宙へ飛翔させたときの違和感のなさ。艦首から伸びる長大な主砲、重厚な艦橋のシルエット、そして艦尾から噴き出す青いエンジンの光。これらすべてが「威厳」と「未来」を同時に体現している。だからこそヤマトは、単なるアニメの戦艦ではなく、日本人の心に根付く「希望の象徴」になったのだ。

そして何よりも忘れてはならないのは、ヤマトが常に「地球を背負っている」という点だ。艦内に乗り込むクルー一人ひとりの表情は、人類の代表という重圧を背負いながらも、仲間と共に戦う覚悟に満ちている。ヤマトの戦いは決して個人的なものではなく、集団の意志、ひいては民族の存亡を賭けた戦いである。その緊張感が、敵艦隊との激突をより美しく、より劇的なものにしている。

「ヤマト対○○艦隊」という構図が持つ魅力は、単なる戦闘の勝ち負けを超えている。それは「孤独な存在が、無数の困難に立ち向かう」という人類普遍のドラマであり、日本人が歴史を通して大切にしてきた精神の延長線上にある。だからこそ、あのテーマを耳にすると、僕たちの胸の奥に眠る“大和魂”が呼び覚まされるのだろう。

気づけばラーメンライスはすっかり冷めていた。だが、そんなことはもうどうでもよかった。宇宙戦艦ヤマトのことを考えるだけで、胃袋よりも胸が満たされてしまったのだから。

オタク話に花を咲かせてしまったが、僕のブログなので僕の勝手か。

ラーメンとカメラロール

ここ一週間、冷静に振り返ると、どうにもラーメン率が高い。
気のせいだろうと願いたいけれど、財布のレシートやスマホのフォルダに残る写真は正直だ。
醤油、味噌、豚骨、つけ麺。並んでいるのはラーメンばかりで、しかもなぜか麺ではなくチャーシューや卵のアップを撮っている。
言い訳できない。これはもう完全に「ラーメンライフ」である。

だけど、だからといって後悔はしていない。
むしろ、ラーメンまみれの日々もそんなに悪くないとさえ思っている。
だって、ラーメンって本当にすごい。丼の中に人類の叡智と欲望と、空腹を満たす魔法が全部詰まっている気がする。
大げさに聞こえるかもしれないけど、実際そう思うのだから仕方がない。

もちろん、体にいいかどうかと問われれば、僕は急に黙る。
むしろ「野菜食べてる?」と誰かに指摘されたら、心の中でラーメンの上のネギを全力でカウントするくらいしかできない。
でも、人間は「体に悪いと知っててもやめられないもの」によって、案外支えられているんじゃないか。
タバコとかお酒とか、その人なりの“弱点”があるように、僕の場合はラーメン。
かわいい弱点だと思わないだろうか。

そして、何度でも言うが、僕は“ラーメンライス”派だ。
ただし、勘違いしないでほしい。ご飯をラーメンに浸すタイプではない。あれは違う。
僕のやり方は、ご飯を一口、スープをひとすすり。
この順番、このリズムがいいのだ。
ご飯とスープが別々に存在しながら、一緒にひとつの物語を奏でる。
これを美学と言わずして何と言おう。

とはいえ、ラーメンライフを送っていると、周囲から「またラーメン?」「飽きないの?」と不思議そうに聞かれる。
いやいや、ラーメンを一括りにしてもらっては困る。
味噌と塩じゃまったく別物だし、同じ醤油でもお店によって全然表情が違う。
昨日食べた醤油は「渋い親父」みたいだったけど、今日食べた醤油は「明るい後輩」みたいだった。
人間関係と同じで、同じ“ラーメン”というくくりでもキャラは多様なのだ。

それにラーメンは、体調や気分と対話できる。
「今日は疲れたからガツンと豚骨」とか、「昼に甘いもの食べすぎたから、夜はあっさり塩にしよう」とか。
日常のコンディションに合わせて選べる余地があるのがラーメンの懐の深さだ。
昨日はこってり食べて「これぞ幸せ!」と叫んでいたのに、次の日はあっさりに切り替えて「やっぱりシンプルが一番だな」なんて言ってる自分がいる。
手のひら返しの早さに笑うけど、そういう矛盾をまるごと許してくれるのがラーメンなのだ。

夜中にふとラーメンが食べたくなるときもある。
冷蔵庫をのぞけば食材はあるけれど、「そうじゃないんだよな」と首を振ってしまう。
そして気づけば、街灯の下を歩きながらラーメン屋の暖簾を探している。
見つけたときの安心感といったら、本当に“帰ってきた”という感じがする。
あの光景は、僕にとって夜の母のような存在だ。

もちろん、このラーメンライフが永遠に続くわけではないだろう。
いずれ健康診断で「そろそろ控えなさい」と言われ、心にブレーキをかけられる日が来る。
そのとき僕は「まあまあ、週三を週二に減らせばいいでしょ」と照れ隠しの妥協をするに違いない。
でもその“妥協”さえもまた、人間らしいと思う。

結局、僕の人生はラーメンみたいなものだ。
こってりした日も、あっさりした日もある。
しょっぱすぎて後悔する日もあるけれど、最後に「まあ悪くなかったな」と思えるなら、それでいい。

ここ一週間ラーメンばかり食べている僕は、案外幸せなのだ。
激しくすすりながら「ゆるく息をしていたいだけ」なんて言っている。
矛盾しているけど、それが僕のラーメンライフ。
やっぱり悪くないでしょう。

ゆるくいたいのに、今日も激アツライフ

ゆるく息をしていたいだけ。そんなタイトルのブログをやっているのに、今日もがっつり飯を食ってしまい、ゆるいどころか激しい呼吸をしている自分がいる。いや、これもう「ゆるさ」とは真逆の、激アツ飯ライフじゃないか…と最近ふと思う。自分でもちょっと笑っちゃうけど、これが現実だ。

こんなふうに思うのは、最近の自分の生活が割と充実しているからかもしれない。ゆるく過ごしたいと思っているのに、やることは結構詰まっていて、気づけば忙しい気もする。まあ、それはそれで悪くないけれど、もう少しゆるっとした時間を大事にしたい、というのが本音だ。

最近、フィルムカメラのレンズとフィルムを買った。デジタル全盛のこの時代に、わざわざフィルムなんて選ぶ自分がなんだかちょっと古臭くて笑える。でも、そのアナログな感じが好きなんだよね。シャッターを押す感触とか、フィルムを巻き上げる動作とか、全部がじわじわ楽しい。まだまだ初心者だから、うまく撮れない写真も多いけど、それもまた味ってことで。

実はこれ、ちょっと自慢したいけど照れくさくてあまり言ってなかったんだけど、写真撮影って自分にとって良い気分転換になってる。静かな公園とか夜の街角とか、そういうところを歩きながらシャッターを切るのが好きなんだ。デジタルだとつい枚数を気にせず撮りまくっちゃうけど、フィルムだと「この一枚!」って真剣になれる。現像に出すまでどんな風に写ってるかわからないドキドキ感もまた楽しい。

ゲームも結構充実している。今は『サイバーパンク2077』や『マインクラフト』、『ペルソナ3リマスター』を交互に遊んでいる感じだ。FPSオープンワールドの自由さにハマったり、クラフトして自分の世界を作ったり、RPGの物語に没頭したり。ジャンルはバラバラだけど、どれもそれぞれ違った楽しさがあって、ゲームの多様性に感謝している。時々、ゲームの世界に没入しすぎて現実に戻ってこられなくなることもあって、そんなときは「ああ、やっぱり自分ってこういうの好きなんだな」と再確認したりする。

それから、最近夜の散歩も日課になっている。家の近くをふらふら歩くだけだけど、これが意外と気持ちいい。夜の静けさと街灯のぼんやりとした明かりが、自分の気持ちを落ち着かせてくれる。スマホもほとんど見ずに、ただ自分の呼吸と足音だけを感じながら歩く時間。時々、空を見上げて星を探すけど、都会の明かりが邪魔してなかなか見つからないのが悔しいところ。そんなささやかな楽しみも、じんわり心に染みている。

それにしても、こうやって自分のことを書いていると、ちょっと恥ずかしくなってくる。だって、「ゆるく息をしていたい」とか言いながら、やってることは意外とアクティブで、ちゃんと趣味に熱中しているんだから。いや、別に悪いことじゃないけど、なんだか自分の中のイメージと現実のギャップに戸惑うというか、そんな感じ。

まあ、ブログのタイトルはタイトルとして好きだし、これからも「ゆるく息をしていたい」気持ちは変わらないけれど、実際の生活はもうちょっと激しく、だけど楽しみながら生きていく感じでいいのかなと思い始めている。ゆるさも大事だけど、時には激アツでいることだって、自分にとって必要なことなんだよね。

そんなわけで、今日もまた飯をがっつり食い、夜の街を歩き、カメラを持ってシャッターを切り、ゲームの世界に没頭しながら「ゆるく息をしていたい」と思う自分がいる。いや、これはもう、ゆるいのか激しいのかよくわからないけど、とにかく楽しい。そう思えたら、それでいいのかな、と。少しだけ照れ隠しながら、そんな日々をこれからも続けていきたい。

寿司とラーメン、そしていつかのラーメンライス。

今日は寿司を食べに行った。ここ最近、外食の回数が少し増えてきた気がする。でも、だからといって毎日どこかで食べ歩いているわけでもないし、「まあこれくらいならいいだろう」と自分に言い聞かせる。とはいえ、もし誰かに「これが怠惰の始まりだと思わないか」と指摘されたら、さすがに反論の言葉に詰まってしまうだろう。そこは少し頭を抱えるところだ。

とまあ、そんな余計なことを考えつつも、今日は寿司を食べた。といっても高級な板前寿司ではなく、いわゆる世間でいうところの「回るお寿司」だ。回転寿司。手軽で、気楽で、それでいて満足度も高い。今日もいつもの店に足を運んだ。もう店の入口から漂ってくる醤油の香りや、カウンター席の雰囲気に安心感を覚えるくらいには馴染みの場所だ。

席に着くと、まずはマグロを頼む。これが自分にとっては寿司のスタートの合図みたいなものだ。次に、はまち、サーモン、赤いかと続けて注文。どれもお気に入りのネタで、毎回ほぼ同じ順番で食べる。変化がないと言われればそうかもしれないが、この安定感がいい。ふと隣の席を見ると家族連れの子供がマグロを食べていた。それを見るだけで食欲が増してくる。

回転寿司のいいところは、最初から全部頼まずに、食べたい分だけその都度注文できることだ。今日も、マグロをもう一皿追加したり、途中で玉子焼きを挟んだりしながら、ちょうどいいペースでお腹を満たしていった。皿が積み上がっていく光景も、この形式ならではの楽しさだと思う。

そして、回るお寿司の自分にとって最大の魅力は、いい塩梅にお腹が膨れたころに「締め」を選べることだ。そう、ラーメンだ。ここは寿司だけで終わらせない。寿司で腹八分目までいったところで、最後に温かいラーメンをすする。これがたまらない。

寿司のあとにラーメンなんて…と少し前までは思っていたが、実際にやってみると驚くほど合う。魚の脂と醤油の風味の余韻を残したまま、ラーメンのスープを口に含むと、また別の満足感が広がる。スープの温かさが胃に落ちていく感覚は、寿司だけでは得られない締めの心地よさだ。

今日も醤油ラーメンを注文した。麺はやや柔らかめ、スープはあっさりとした味わい。箸で麺を持ち上げ、ずるっとすすった瞬間、寿司で満たされたはずのお腹にまだ余裕があることに気づく。こういうとき、人間の食欲は不思議だ。お腹は満ちているのに、味の欲求が満たされていないと「もう少し食べられる」という感覚が出てくる。

…ただ、ラーメンを食べていると、ふと別の「締め」を思い出してしまう。それはラーメンライスだ。白いご飯とラーメンの組み合わせ。ただ、僕の好みはご飯をスープに浸すのではなく、ご飯をひと口食べて、ラーメンのスープをすするスタイルだ。この順番がいい。米の甘みとスープの塩気が交互に来るのが、何よりの至福だ。

ラーメンライスを思い出すたび、あの満足感が胸の奥に広がる。子どもの頃、銀河鉄道999で哲郎がラーメンライスを食べているシーンを見て「なんて美味しそうなんだ」と思った。それがきっかけで、自分もラーメンライスに強く惹かれるようになった。あのシンプルなセットには、どこか旅の途中の食堂のような、温もりと力強さがある。ラーメンと寿司も悪くないけれど、ラーメンライスには別の特別さがあるのだ。

だから今日、寿司とラーメンで締めながらも、心のどこかで「やっぱりラーメンライスが恋しいな」と思っていた。あの、米とスープを交互に味わう時間。腹も心も満たされる瞬間。最近は店で注文する機会が減ったけれど、次にラーメンを食べるときは、迷わずライスも一緒に頼もう。そう心に決めながら、寿司屋を後にした。

外食が増えることは、財布や健康の面ではあまり良いことではないのかもしれない。でも、自分にとってこういう日は、日常の中の小さなご褒美だ。寿司とラーメン、そしていつかのラーメンライス。その全部が、自分の食の記憶を少しずつ豊かにしている。

ラーメンライスと999

ラーメンライスが好きだ。
外で食べるときの定番と言っていいくらい、どこの店でもラーメンを頼むと、迷わずライスもつける。決して特別な料理ではないけれど、自分の中では、自然と心が落ち着く組み合わせだ。

ラーメンの熱さ、ご飯の温かさ。麺とスープを楽しんだあとに、ご飯をひと口。それからスープをぐっと飲む。その流れが心地いい。ご飯をスープに浸す人もいるけれど、自分はそれがあまり得意ではない。あくまで「ご飯」と「スープ」はそれぞれの形を保ったまま、順番に味わいたい。両方の良さを、別々に噛みしめる感じが好きだ。

自分がラーメンライスを好きになったきっかけは、少し変わっているかもしれない。『銀河鉄道999』を見たのが最初だった。

星野鉄郎ラーメンライスを食べている、何気ないワンシーン。特に感動的でもドラマチックでもない場面だったのに、それが妙に記憶に残った。ラーメンとライスを一緒に食べるという発想が、当時の自分にはすごく新鮮で、同時に「すごく美味しそうだ」と思ったのを覚えている。

それ以来、自分の中で「ラーメンライス=鉄郎」というイメージが強くなった。ただのラーメンライスなのに、あのアニメの1シーンを思い出すだけで、なんとなく特別な食べ物に感じるのだから不思議だ。

初めて実際にラーメンライスを頼んだときのことも、よく覚えている。塩ラーメンに白ごはん。店のカウンターに一人で座って、少し緊張しながら食べた。麺をすすって、スープを少し飲み、それからご飯をひと口。何の変哲もない順番なのに、それがとても心にしみた。

「こういうことか」と思った。鉄郎があのシーンで味わっていたのは、こういう味だったのかもしれないと、勝手に想像した。もちろん、実際に彼がどう感じていたかはわからない。でも、自分の中ではそれで充分だった。

それ以来、ラーメンライスはずっと好きなままだ。いろんなラーメン屋に行って、いろんな種類のラーメンを食べてきたけれど、どんな味でも、ライスがついていれば安心する。

「ラーメンとご飯なんて、ただの炭水化物同士じゃないか」と言われたこともあるけれど、自分にとってはそうじゃない。ただの食べ合わせじゃなくて、ひとつの“流れ”なんだ。スープの塩気を口に残したままご飯を食べると、その塩気がご飯の甘みを引き立ててくれる。だから、飽きない。

ラーメンライスという言葉を聞くと、いまでも『銀河鉄道999』の映像が思い浮かぶ。自分の好みのルーツをたどると、いつもそこに行き着く。漫画やアニメの中のひとコマが、現実の自分の習慣になるというのは、なんだか面白い話だと思う。

ラーメンライスが好きだ。
その理由を一言で説明するのは難しいけれど、自分の中にはっきりとした「原点」があることだけは確かだ。星野鉄郎ラーメンライス。その出会いが、いまでも食卓に残っている。